藤田 美保(ふじた みほ) 氏
川西市黒川里山センター センター長
認定NPO法人 コクレオの森 代表理事
2004 年に「わくわく子ども学校」(現:箕面こどもの森学園)常勤スタッフ、2009年から箕面こどもの森学園校長。2022年から認定NPO法人コクレオの森代表理事。
現在は、ESDの学校がある持続可能なまちづくりを目指す。
共著「こんな学校あったらいいな~小さな学校の大きな挑戦~」(2013年)。「みんなでつくるミライの学校~21世紀の学びのカタチ~」(2019年)。
黒川の日本一の里山に抱かれて小さな屋根が見えます。
旧川西市立黒川小学校、1945年には100名を超える児童が集っていましたが1977年無期休校となり、その後は黒川自治会館として解放され、NHKの朝の連続テレビ小説『スカーレット』の舞台ともなりました。
今年2023年4月、認定NPO法人 コクレオの森が指定管理者となり、川西市黒川里山センターとして新たなスタートが切られました。センター長に就任された藤田美保氏にお話をお聞きしました。
ーよろしくお願いします。唐突ですが、お生まれは
よろしくお願いします。
三重県尾鷲市です。尾の鷲の市で、「おわしし」じゃなくて「おわせし」です。語呂が悪かったみたいです(笑)。尾鷲市は「尾鷲ヒノキ」で有名な檜の町です。海と山とちょこっと平地があるようなところでした。
両親が教師だったんですが、私は小さい時は、母方の祖父母の家でいつも過ごしていました。
祖父母は酒と米の販売店を営んでいて、お店が遊び場でした。酒の販売店の方では、お酒を出していたんですね。近所のおじさんが集まってちょっと形が悪くて売れない野菜をタダで出してたので、お味噌つけて食べながらコップでお酒飲んでました。その横でちょこんと座ってると「美保ちゃんタバコ買ってきて」みたいな感じで、タバコを買いに行ってお釣りを駄賃にもらっていました。家の土間がリビングみたいなものだったんですが、お客さんがそこに入り込んで飲んでましたので、いつも人が周りにいる環境でした。
ー角打ちですね。
当時、祖父母の家が借家を何軒か持ってたんですが、今思うと安い借家だったんだと思います。
そこの住民の方が今だに忘れられません。おばあさんとお孫さんが2人で住んでおられたんですが、おばあさんが毎朝ミニバンのような車に乗って、夜帰って来られるんですね。ある日町を歩いてると、そのおばあさんが土管を埋めるために穴の中で一生懸命土を掘ってるところに出くわしました。そのとき、自分が穴の上から見下ろした光景を今でもよく覚えています。子供心に自分とその人たちとの境遇の差みたいなものを目の当たりにして、心が重くなったことを覚えています。
同じ借家に全盲のおじいさんがおられたんですが、ある日「このタバコを買ってきて」と言われて、指定されたお店に行きました。するとタバコ屋のおばあさんが「〇〇さんのお使いだね?このタバコは、もうこの辺では〇〇さんしか吸わないけど、〇〇さんのために置いてるんだよ」と言われて、子供心に、そこまで人の繋がりがあるんだ、すごいなと驚いたのを覚えています。
その他にも、今の子どもたちには多分経験出来ないような色々な人との出会いがありましたね。祖父母の家で過ごした子ども時代は結構自分の根っこになってると思います。
ーなかなかない経験ですよね。中学校とか高校ではいかがでしたか
見たら見たものになりたいみたいなお気楽な感じでした(笑)。
小説家になりたいとか大工さんになりたいとかバドミントンの選手になりたいとか。何を好きなことを学びたいというよりも、偏差値を上げて行きたい大学に行きたいとか考えてました。けれども、勉強しながらも、どこかでいつも気がかりだったのが「日本は戦後処理が出来ていない」ということでした。
ーきっかけは
「はだしのゲン」を小学2年生で読んだのがきっかけです。
それ以来何故かそう思い始めて、ずっと頭の片隅に持ち続けていました。戦争で虐げられた人たちに、借家に住んでいたおばあさんやおじいさんの姿がオーバーラップしていたような気がします。どんなときも、どんな場所でも、人としての尊厳が大切にされないといけないと感じていたんだと思います。
ーその想いはどのような形になっていきましたか
高校生の時に天安門事件が起こって、最初は、隣の国の同じ世代の人が、何故命をかけて民主化を求めるのかが不思議でした。
でも、これをきっかけに、自分なりにいろいろ考えるようになり、当時、アジア諸国で多国籍企業が安い賃金を求めて世界中から搾取している構図が、植民地支配の新しい形じゃないのか、これは良くないんじゃないか、日本の振る舞いはおかしいのではないかと考え始めました。日本と違い、途上国では満足に勉強が出来ず識字率が低い、この状況を改善してストリートチルドレンを減らしたい、そのために頑張ってみようと思い立ちました。戦後処理の一助にもなると考えたんですね。
大学で海外の教育事情とか課題研究がしたかったんですが、選んだ大学には教師になる学科しかなかったんです。東京の大学に行きたいの一念もありましたし、志望校の偏差値しか知らなくて、何が勉強できるかまでは知らなかった、ネットがなかったですからね。
大学入学後、あの受験勉強は一体何だったんだろう、さてこれからどうしようと途方に暮れました。
今考えると、私自身が、教科書とノートと授業がないと学べない、自分から何かを学ぶというよりも与えられたレールの上を直走っていたんだと思います。2年間茫然としていたんですが、たまたまバイト先の新聞社の人に話をすると、いろんな団体が東京にはあるんだから飛び込んだらどうかと言われ、初めて自分から色々なところに文字通り飛び込んでいきました。
紹介してもらいまた紹介してもらいして、シャプラニールというNGOに行き着きました。
バングラデシュとネパールを中心に活動する歴史のある団体で、識字率の向上による自立支援等を行っていて、私も現地に飛び込みました。ベンガル語も話せるようになり、スラム街でストリートチルドレンの子たちとも話をするようになりました。
当時現地でホームステイしていたんですが、ステイ先の女性から、当時のバングラデシュでは女性は自分の人生を生きることがまだまだ難しい中で、「自分の人生の車は、自分で運転したい。ドライバーは必要ない」と言われ、とても考えさせられました。
ストリートチルドレンともよく話しましたが、自分が稼いだお金で、私にお菓子を奢ってくれたりしてくれるんですね。そんな日々の中で、ふと自分が考えている「援助活動をしたい」とか「バングラデシュに骨をうずめたい」とかは、本当にこの人たちのためになることか、本当に自分がやりたいことなのか、違うんじゃないかと疑問を持ち出したんです。
疑問が大きくなって、一度日本に帰りました。
そこでまた暗中模索の手探り状態に戻りました。就職活動もする気が起きず、子どもが好きだったので、子どもにかかわりながら、これからの人生をどうするのか考えようと思い、結局三重県の小学校教員になりました。
ー教員時代に感じられたことは
私が決めたことでも考えたことでもないことを、子どもに教えることがすごく大きなストレスでした。
私が考えた「こうすればいい」ということではなく、誰かが考えた「こうしなさい」ということを子ども達に押し付け指示してるんですね、教員は。
教員は指示する人、生徒は指示を従順に受ける人、従順に指示に従えない生徒は弾かれる図式ですね。日本は年齢主義ですから、ある年のある時期に生まれた全ての子どもたちが、半ば強制的に1箇所に集められ一斉に同じ指示を受けその指示に従うことを求められる。無理がありますよね。
教科書や行事をこなしていく日々が、教科書に書いてある内容を一方的に生徒に教えている日々が、耐えれなくなって3年で教員を辞めました。
ー3年よく我慢できましたね
両親ともに教員だったので、教員を辞めてどうなるかも不安でした。
たまたまバイト時代に出会った新聞記者の方から、記者を辞めてアメリカの大学院に行くというお話を聞き、背中を押される形で辞める事が出来ました。私自身も、大学院に入り直して、教育を学び直しました。その後、たまたま新聞に出ていた「大阪に新しい学校を創る会」という団体の講演会に参加し、そのまま合流しました。
その団体が、今の「コクレオの森」です。
ーコクレオの森の教育方針は
主な3つをあげると…。
・子どもの個性を一番に尊重する。
・子どもたちが自分で自分の時間割を決めます。
学校の決め事はスタッフと子どもで決めますが、多数決では決めない。
・対話や体験を通じて学ぶ。
の3つですね。
この方針に基づいて学校を創りました。
2002年に本格的に準備を始め、2004年に箕面こどもの森学園(当時は、わくわくこども学校)を開校しました。
生徒7人で始まったんですが、学校が出来た時はお金がありませんでしたから、常勤1人という話になり、私が手を挙げてたった1人の常勤職員になりました。
その日から7人の生徒と私の学校生活が始まりました。時間割も作って生徒と話し合ってプログラムを作って話をして子どもたちとかかわって、また話をしてプログラムを創って子どもたちとかかわる毎日でした。まさにゼロからのスタートでしたね。
子どもたちの間でも合う合わないもありますし色々ありました。あなたはあなたでいいんだよ、あなたはそのままでいいんだよということを子どもたちに納得してもらえるように根気強く毎日諦めずにやり続けました。学校は社会性を学ぶことも大切ですので、バラバラの一人ひとりは大切で大事だけど、ここはみんなで一緒にやろう協力しようという場を設けて少しずつ協力することを学ぶ機会を増やしていきました。本当に暗中模索でしたね。毎日が文字通り勉強でした。
ー次のステージのようなものは考えておられますか
子どもたちと一緒にいると、これって大人も同じなんじゃないかなと気付きました。
子ども時代に指示待ちだった人たちが大きくなって指示待ちの大人になっている。そこで自分らしさや、自分として生きることがわからずに苦しんでいる。そこに気が付いた人たちが、私たちの学校に興味を持ち始めました。今は70名の定員に120名の希望者が待機している状況です。
今後は、2校目を創りたいと計画しています。
廃校の活用ですね。そして自然豊かな環境での教育です。
入学して来る子どもたちの保護者を見ると、自然に親しみたい親しんでいる人たちが多いです。私たちの考える教育スタイルを展開するには、自然豊かな環境の中の廃校を利用することが一番フィットしていると考えています。教育移住ですね。自治体にとっては、廃校管理の問題と居住者の増加、地域教育の充実の3つの課題が一挙に解決するわけです。そううまく行くかはこれからですが、少なくとも可能性は大きいと感じています。
教育拠点としてだけではなく、地域デザイン、ソーシャルデザインが私たちの次のフィールドです。
ここで、里山がキーワードで浮かび上がってきました。
ー繋がってきましたね
私たちは、学校法人化しようとしていますので、建築基準をクリアするためにはやはり廃校が一番使いやすい。
建築を一からではハードルが高いですから。また人里離れた大自然の中も保護者の生活を考えると選択肢になり得ない。自然豊かで人里にも近く、人口の過疎が進み廃校も存在する里山地域があるんじゃないかと探し始めました。
その時に黒川地区と出会いました。
箕面から遠くないですので、地域の勉強会に参加して少しずつ地域のことを学び始めました。大きな廃校は存在しないので、目的となる地域にはならないんですが、とてもすてきな里山地域なので、旧黒川公民館をベースに、親子教室、自然体験イベントを開催してきました。
少しすると、北摂里山文化保存会さんから、黒川自治会館近くのウッドデッキの修理に協力依頼があり、子どもたちや保護者の方などを含めてみんなで取り組みに参加しました。
そうこうしているうちに、黒川里山センターの指定管理者募集のお話をお聞きし、このステキな里山地域に踏み込んで活動しようと決断して応募し、私どもが選定されました。
黒川里山センターのミッションは大きくは5つです。
・里山保全、自然体験等を行う拠点化
・里山を活用した教育振興
・黒川地区の観光案内、観光推進
・関係人口拡大による地域課題の解決と地域活性化
・旧黒川小学校校舎の歴史的価値、景観に配慮した利活用
なかなかハードルの高いミッションですが、スタートして4ヶ月、新棟の建設も始まり2年後の本格始動に向けて一歩ずつ進めているところです。
私たちの仕事は、地域の皆様のご協力が不可欠です。そのための関係性を広げること地域につながっていくことが、私の一番の仕事だと考えています。
今は単発のイベントを実施して色々手探りを続けていますが、今年の秋には北摂里山博物館のご協力をいただいて、連続した里山塾のようなプログラムを先ずは始めようと計画しています。
ー藤田さんの考えるソーシャルデザインの形とはどのようなものですか
教育を中心にという点では変わらないんですが、その教育を支える地域の持つ共感と言いますか基盤が大切だと思います。
指示する指示される教育ではない自分達が受けたい教育を一緒に考えて、地域で子供達を育てる教育を実現したいなどの共感をベースにした地域基盤ですね。
医療にしても自然分娩をベースにしたり、介護される人の気持ちを大切にした介護医療や、地産地消のエネルギーや食の循環を作り出したり、ローカルの安定した移動手段を持ったり、住んでいる人が自分で作りみんなで寄り添う地域を作りたいなと考えているところです。
サイズ感は別にして、正に今取り組んでおられる北摂里山地域循環共生圏構想に近いものだと感じています。
しかし、道のりは遠いですね。先ずはしっかり黒川里山センターで経験を積んで、その経験を生かして私たちの夢に向かって進みたいと思います。
北摂里山フィールドパビリオンにおいても、私たちの考えるソーシャルデザインの現在地を広くお伝えできればと思っていますので、よろしくお願いします。
ーありがとうございました!
ー階段を一段ずつ着実に登り、廃校が新しい教育の場に生まれ変わった姿が目に浮かびます。
ーその新しい学校で、ニコニコと子供達と話している藤田さんにお会いするのが楽しみです。
ー夢を追いかける素晴らしさを感じたインタビューでした。
T.Mi