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インタビューず

仲しい茸園 園長 仲 守 氏

仲 守(なか まもる)氏
仲しい茸園 園長
・日本特用林産振興会 功労者表彰(2017年)
・猪名川町表彰 ツツジ賞(2018年)
・猪名川地域農業推進協議会賞(2018年)

猪名川町の道の駅には、旬の椎茸が売られていて、今まで見たことがない「こんなプリップリの大きな椎茸あるんだあ」とびっくりして、猪名川には名産で猪名川椎茸があることを知りました。
今回は、地元猪名川で開園68年を迎えられ、原木椎茸栽培で有名な仲しい茸園の仲守園長に、里山を活かした椎茸作りについてお話をお聞きしました。

ーよろしくお願いします。昭和30年に園を設立されたわけですが、当時から猪名川では椎茸作りが盛んだったんですか?
よろしくお願いします。
日本で椎茸の栽培が始まったのは、昭和10年ごろに、森産業の森喜作さんが世界で初めて純粋培養菌種駒(円筒形をした木片に、きのこの菌糸を純粋培養したもの)法の発明に成功したのが始まりです。それまでは、木を切ってその木に自然に菌がうまく着床し育てばいいしというまあ博打のようなものだったんですね。戦争が終わり、先代の富男がその種駒を手に入れて椎茸栽培を始めたのが昭和30年です。

当時はまだオガコを使う菌床栽培などありませんから、原木栽培でした。
原木栽培ですが、コナラやクヌギなどの木を1mくらいに切ったものを「原木」と言い、その原木にドリルで穴を開けて、先ほどお話しした「種駒」を植え付けます。植え付けて半年ほど経ったものを「ほだ木」と呼びます。このほだ木を育てて椎茸を栽培するのが原木栽培です。

この猪名川近辺には、この原木となる良質なコナラやクヌギが多く産出されましたので、種駒の改良・普及に歩みを合わせるように椎茸栽培が盛んになりました。
当時はまだまだ松茸が主で、椎茸がやっと名前を知ってもらえた頃でした。大阪の中央市場に卸すんですが、一軒一軒バラバラに運んでいては効率が悪いということで、富男が中心になって組合が設立され、配送等の一元化にあわせ製品自体も「猪名川椎茸」の名前で統一し、ブランド力を高め好評を博していました。

昭和40年代になると、生産者もまだまだ若くて力を入れていましたし、社会も好景気で万博景気が拍車をかけ、出荷量が急激に増加しました。作れば売れる、まさに好景気でした。

しかし昭和50年代に入ると、中国産が入り一気に値崩れを起こすとともに、原木の入手難から研究の始まった菌床栽培の改良が進み、大規模生産者の栽培が始まりました。好況期を支えた原木栽培の生産者も高齢化が進み減少し、猪名川の組合も無くなってしまいました。
現在では市場の9割程度がこの菌床栽培による椎茸が占めていると思います。

ーその時代の流れの中で、仲園長はどのように動かれたんですか
私は、昭和57年に仲しい茸園に入りました。
ちょうど昭和から平成に向かう時期でしたが、菌床栽培の確立に派生して、ナメコやえのき、エリンギ、舞茸と、きのこ自体の製品の多様化が進みました。お客様の選択肢が増えたわけですね。結果的に需要が分散し椎茸自体の需要も落ち込みました。この状況を変えようと、まあ若かったですから、色々チャレンジしました。
ちょうど市場中心だった流通の時代が、個人間での流通が始まった時代でしたので、個人の名前「仲しい茸園」の名前を前面に出した流通に特化しました。特化するためにも差別化が必要ですので、原木栽培にこだわりました。

ー差別化できるものがあったということですよね
原木栽培では、猪名川ならでは強みがあったんです。
通常の農作物にとって土づくりが作物を育てる上で大切なように、椎茸にとっては原木が土のようなものです。良い土が出来て美味しい作物が出来るように、よい原木があると美味しい椎茸が出来ます。いろんな産地の原木を扱いましたが、猪名川の原木はやはり木の素性が良いので、質の良い椎茸が出来ます。菌床栽培のものと形や大きさでは変わりがなくても、食感が全然違いますね、美味しいですよ。

また、いわゆる観光農園にも挑戦しています。
ちょうど30周年になるんですが、私手作りのログハウスでバーベキューを提供しています。カフェテラスも作りました。

ー手作りなんですか、お洒落ですね。

ありがとうございます。
お客様から椎茸を自分で取って、その椎茸を食べたいというお声を聞き挑戦しました。4人のテーブルで椎茸を焼いて食べていただいたところから始めましたが、徐々に徐々に試行錯誤の末、やっと形になってきたかなと思っています。

ー現在の椎茸の生産量はどれくらいですか
20トンくらいかなと思います。
生産量は、ほだ木の量に依存します。一本の木を切って使いますので、ほだ木には、太いものと細いものがあります。そのほだ木に合わせて、露地栽培と周年栽培があります。
露地栽培は、原木の太いものを中心に山の傾斜地で育てます。秋から春にしか収穫できません。
いわゆる春子秋子という椎茸はこの露地物です。
例年春先に約2万本に種駒を植え付けますが、太い木ですので7、8年の間収穫が可能です。ほだ木の保有本数は10万本程度になると思います。
木が腐ってきて最後はカブトムシの餌になります、循環ですね。

細いほだ木は、年中収穫が出来る周年栽培に利用します。
一晩水に漬け、ハウスで育てます。

夏場では1週間、冬でも1ヶ月程度で製品になります。そのほだ木をまた2ヶ月程度休養させてというサイクルを続けます。

ー先ほどお話しが出ていましたが、原木が最も重要なんですね
原木が全てと言っても過言ではありません。
原木と言ってもやはり勢いのある、そしてある程度太い10m程度の木が必要です。木の種類もクヌギ・コナラに限定されます。そんな都合の良い木ばかりが育っている山はありません。自分で山をよく知っていなければなりません。冬の葉が枯れ落ちた時期に山を見て周り、切り手の人たちと情報交換をします。この点でも地元の山でなければよく知る事はできません。この20年で、いい山がどんどん減っています。獣害によって萌芽した若い芽が食べ尽くされているからです。萌芽更新しないので、山に新しい木が育ちません。猪名川町や北摂里山地域のいわゆる里山は、この獣害によって原木の出荷は大きくは望めません。

じゃあ全国から買えばいいとなりますが、運賃を横に置いたとしても、原発事故が大きく影響し難しい状況です。福島県は原木の一大生産地域でした。近隣地域からも木材の出荷が規制されています。結果的に原木の出荷量自体が大きく落ち込み、原木の奪い合いが起きています。原木の高騰は防ぎようがありません。
今年の春、一気に原木の状況が厳しくなりました。原木の奪い合いに、切り手不足が顕在化したからです。伐採の時期が、木が乾燥する10月から3月のみですので、バイオマス事業の推進など旺盛な通年の切り手需要に押され、短期の仕事に切り手が回りません。高齢化も拍車をかけていますね。
原木がなく高騰し、切り手もいない。正に八方塞がりですね。来年状況が好転するとは考えにくいです。

ー状況が急速に悪化している今、仲園長の考えておられる原木栽培の未来図は
全般的なコスト高や働き方改革など社会状況の急激な変化を考えると、今までのやり方では事業の継承は難しいと言わざるを得ません。山を一から見て目利きを覚えるのは、なかなか若い人には難しいでしょうね。原木の供給サイクルも変えなければなりません。
もう今までのように、個人で原木を調達し安定的に需要に応えていく事は、厳しいですね。

私が考える打開策は、国や県の政治的行政的支援をどうやって引き出すか、この一点だと思っています。
木が育つには20年の歳月が必要です。今何らかの方策が取られなければ、原木栽培の未来はないでしょう。

今まで原木を中心に回っていた里山のサイクル・循環が、正に今息絶えようとしています。

原木栽培業者は零細な家族企業が多く、行政を動かす発信力や影響力は弱いです。地域の原木組合を作って、色々陳情も始めていますが、遅々として進んでいません。
今回の北摂里山フィールドパビリオンの取り組みの中で、現状を訴え、広く原木栽培の良さをお伝えしたいと考えています。これも生き残りを賭けた挑戦ですね。

ーありがとうございました!

ー社会の変化が急激であるだけに、色々な原因が複雑に絡んで複雑な変化を生み出している。
丁寧に個人で育てることの出来た時代は、もう終わりを迎えるのかもしれません。
ー製品の良さを他者に的確に伝え、共感を生むことの大切さを痛感したインタビューでした。
T.Mi

 

 

川西市黒川里山センター センター長 藤田 美保 氏

兵庫県立歴史博物館 館長 藪田 貫 氏

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