藪田 貫(やぶた ゆたか) 氏
大阪府松原市生まれ
1971年 大阪大学文学部史学科卒業/1974年 同大学院文学研究科博士課程中退、同文学部助手
/1979年 橘女子大学助教授/1990年 関西大学文学部教授/1993年 「国訴と百姓一揆の研究」で阪大博士(文学)/2014年 兵庫県立歴史博物館館長/2015年 関西大学名誉教授
北摂里山地域の歴史的な紐帯・絆が何なのか、長く考えていました。
川西市史、宝塚市史、猪名川町史全てに記述があるのは、2点。多田荘(園)と多田銀山です。
今回、多田荘を生み出した清和源氏の祖 源満仲からの歴史軸の中で北摂里山地域を包む史観がないかと、多田院御家人(※)の調査研究に取り組まれた兵庫県立歴史博物館の藪田館長にお話をお聞きしました。
川西池田駅の満仲像を拝し向かった兵庫県立歴史博物館では、台風一過の晴れ渡った夏空が広がっていました。
※中世からに近代にかけて、源満仲(912~997)が天禄元年(970)に開創したと伝えられる多田院(現多田神社)に奉仕する武士団(『多田院御家人と多田荘の歴史を紐解く』平成30年猪名川町、P9)
ーよろしくお願いします。5年前に調査をまとめられたわけですが、北摂里山地域と多田院御家人との関係はどのように見ることができるでしょうか
よろしくお願いします。
西谷・中谷・東谷の旧村を中心とする地域ですね。地域間の交流は道が中心になります。獣道から人の道、車の道にと少しずつ進んでいきますが、初めはやはり川辺の道が重要です。猪名川と武庫川の川筋ですね。当然南北の道なので、横に、東西に広がろうとすると川を渡らなければなりませんが、この地域は上流部に位置しますから往来があったと思います。
また、多田荘は自ら地所を開墾し領域を広げて行った開発所領です。
山があり川があり、農耕にも狩猟にも適した里山地域に広がって行きました。その意味で、北摂の里山という環境こそが、多田荘を生み出したと言ってもいいかもしれません。
その多田荘の中心として多田院があり、それを守っていたのが多田院御家人たちです。しかし、多田院御家人は時代の変遷の中で形を変えていきますので、多田荘と多田院御家人の存在した地域を明示することは出来ません。ただし多田院御家人が、鎌倉時代の史料に初めて記述されてから、明治初年の多田隊解散に至るまで生き続けたことが、多田荘の存在の1つの証左であったのは間違いないでしょう。
研究報告書『多田院御家人と多田荘の歴史を紐解く』に詳しく記述されていますが、多田院御家人は、鎌倉時代に多田院の守護を役目とすることで身分を安堵され、源氏の流れをくむ足利氏の時代に大きく勢力を広げていきました。その後、安土桃山時代には、織田信長と荒木村重の合戦の兵火により多田院は焼失します。
江戸時代の元禄年間に多田院再興が決まり、その機に多田院御家人も再編成され、勤番所が院内に設けられ、江戸期末期まで多田院の守護役を務めました。
慶応4年(1868)新明治政府の呼びかけに応じ多田院御家人の名誉回復に命を賭して多田隊を結成し幕府軍と戦います。その後、多田隊は解散となり、勤番所も廃され、御家人としての存在が希薄になっていきました。
ー平安時代から脈々と時代の変化を乗り越えてきた要因は何でしょうか?
多田院御家人の「一所懸命」の地を守ろうとする姿だと思います。
鎌倉殿の御家人のように主君に仕え、各地を転戦するのではなく、多田院という満仲の菩提所、いわば聖地を守るべく、草深い地に土着した戦闘集団が、複数のリーダーの下で結束し、多田院を守護し続けました。これは、中世の御家人としては他に類を見ない特殊なものだと思います。
先ほどお話ししました通り、多田荘自体が自ら開墾し領域を広げて行った所領です。地勢を読み、環境にフィットした技術、たとえば治水・灌漑などの技術を共有し、小さな集団を大きく拡大していきました。その結果、御家人が多田院を中心に広域に点在させることになったんだと思います。そしてその地を一所懸命に守り抜き、御家人同士が連携することで、多田庄の安寧と多田院の存続を目指したのではないでしょうか。
御家人という身分を持ちながらも、自分たちの開発した場所を一所懸命に守り抜く気概が、彼らの特徴ではないかと考えています。地域のサイズも、土着の集団には適していたんだと思います。
ーその気概を近代に見ることは出来るでしょうか
今回の調査で最大の発見が、戦後、発刊された「北摂郷土史学新聞」の存在です。
多田院御家人の末裔にあたる平尾家に明治29年(1896年)生を受けた粟野頼之祐が、昭和26年(1951年)に発行しました。
頼之祐は戦前、30歳で渡米し、ハーバード大学を卒業後、ボストン美術館に奉職し、日米開戦の前年に帰国します。在米中に母親に宛てた手紙が残っており、「何物かにならない間は帰国しない」と決意を語っています。帰国後、病を患い、自らの人生を振り返る中で、戦後の日本に必要なものとして頼之祐が見出したものが、「北摂郷土史学新聞」だったと思います。志半ばで帰国した彼なりの再出発だったと思います。
編集綱領には、「北摂に於ける郷土史学並びに文化に対する限りなく深い郷土愛を以って」とあります。彼自身は六瀬村の出身でしたが、紙面を見ると、広く北摂という視座を持って活動した人物であったことが分かります。自らが多田院御家人の末裔であることを強く意識していました。その出自が、北摂郷土の歴史文化を守る活動を進めさせたんだと思います。
青壮年期をアメリカで暮らし、西欧の古典学、とくに古代ギリシャ史の研究に没頭していた頼之祐は、幸いにも皇国史観に惑わされることなく、戦後日本を見ることで、郷土の歴史文化の持つ意味をいち早く再評価したんだと思います、この北摂の郷土ですね。「北摂郷土史学新聞」は昭和28年4月号まで残っていますが、その後、関西学院大学の西洋史学教授となり、75歳で永眠します。
頼之祐の愛した北摂の地で開催される「日本一の里山・北摂里山フィールドパビリオン」を、私も興味を持ってフォローしたいと思います。
ーありがとうございました。
ー郷土、自分の生活しているところの歴史を知ることは大切だなと、今更ながらに
気付いたインタビューでした。これからもご指導よろしくお願いします。
T.Mi